キリスト教の自己批判(上村静)
書籍情報
書籍目次
- はじめに
- 第1回 聖書の非神話化と再神話化
- 第2回 「聖書」と「歴史」 ――解釈学的問題
- 1.モーセ五書に「物語られている歴史」と「物語る者の歴史」
- 2.「読者」の歴史
- 3.現代における「聖書」と「歴史」
- 第3回 黙示思想とコヘレトの書
- 1.黙示思想
- 2.コヘレトの書
- 3.二元論的思考とキリスト教
- 第4回 イエスと原始キリスト教 ――その連続・不連続
- 1.イエスの語る「神の国」
- 2.キリスト神話
- 3.パウロ
- 4.イエスとキリスト教の連続・不連続
- 5.これからの「キリスト教」「キリスト者」「信仰」「教会」
- 第5回 ユダヤ教・イエス・キリスト教 ――明日の福音のために
- 1.聖書から読み取れる〈いのち〉についての洞察
- 2.表象にまつわる問題
- 3.「信仰」と自己
- 4.キリスト教の現代的意義
- 5.キリスト教の継続的な自己批判の必要性
聖書は神話である(→p.10)
- 聖書は言葉で構成される
- 言葉は一義的ではない(解釈の余地が残る)
- 故に特定の解釈を絶対化する欲求が発生する
- 特定の解釈を絶対化する為に「権威」が生成され、「権威」によって特定の解釈が絶対化される
- 権威は権威自らを守るために、反逆者に懲罰を与えるようになる
[NOTE]
- 聖書が言葉で構成される以上、解釈の余地が残ることは避けられない
- それ故、特定の解釈を強要するために権威が要求される
- 権威は特定の解釈を強要する
- つまり、聖書自体が偶像化する/しているということでは。
- 偶像崇拝の禁止は聖書にもかかっているのではないか。
聖書が事実を著したものだとする考え方は無意味かつ有害である(→p.11)
- 聖書が事実を著したものだとする考え方は現代においては無意味かつ有害である
- 古代人は、人間の手に負えないことは神、悪魔、霊的な何かのためだと考える世界観に生きる
- 現代人は、自然法則に由来する合理的・科学的世界観に生きる
- 聖書は古代人の世界観に基づいて生み出されたものである
- 故に、聖書が事実を著したものだとする考え方は無意味かつ有害となる
自己肯定の根拠(→p.34)
- 現代社会では多くの人が自己肯定の「絶対的な根拠」を失っている
- なので相対的な優位に自己肯定を求めている
- 例えば、ナショナリズムや原理主義、経済的な勝ち組・負け組etc...
- 宗教は人々に自己肯定の根拠を与えることが役割だった(神の下に平等とか?)
NOTE:
- ポリコレ棒を振り回すのも自己肯定の根拠を求めるためなのだろうね
- とはいえ、現代社会で宗教が自己肯定の根拠になることは最早無いだろう
- 世俗を捨てるとかならまだしも、世俗にありつつではムリな話だろう
黙示思想とは(→p.37-39)
- 現実の世界では必ずしも勧善懲悪が徹底されない(=神は適切な報いを与えない)ことへの説明として、現世の行いの報いが死後与えられるとする考え方
- この世で「正しく」生きた人間は死後に神から報いが与えられ、この世で「悪」を為して生きた人間は死後裁きにあう
- 世界を「あの世」と「この世」に二分し、人間を「義人」と「罪人」に二分する二元的世界観による神義論を補強する思想
[NOTE]
- 現代的な価値観からすると完全な詐欺だと思うのだが。
黙示思想、黙示、黙示文学(→p.40)
- 黙示思想
- 異界(天界、冥界)を巻き込む終末論に救済を見出す思想
- 黙示
- 黙示的週末を天の秘儀と考え、それが天的存在を媒介に見幻者に顕わにされること
- 黙示文学・黙示録
黙示思想の問題点(→p.41)
- 死後に報われる=現世は死後の世界の為のステップ → この世界を創造した神への不信心
- 人を義人(救われる者)とそうでない者に二分し、後者の存在を全否定する暴力性の内包
[NOTE]
コレヒトの書(→P.42-54)
- 応報思想の否定
- 死後の報酬の否定
- 救済史の否定・歴史の規則性の否定
- 不可知論
- 神義論の放棄
- 人生の意味の否定(空の空)
- 飲み食いの肯定
黙示思想の本質(→p.43)
- 「義人」の現実における不満を神の名の下に正当化する暴力が内包されている(人間への暴力の正当化)
- 信仰の篤い者が最後に救われるという思想は、神に応報を強請る行為であり、人間の価値観を神に押し付けている(神への暴力の正当化)
- 人間への暴力と神への暴力が黙示思想の本質であり、それは自分が自他への支配者であることの欲求、すなわちエゴイズムの表出である
[MEMO]
- この辺り、中々迫力があった
- 自分と関わりのあるクリスチャンに感じる違和感はコレである
- 結局にところ、己が救われる為に他者を否定し、神に救いを強請る(ねだる)という醜悪さは正直許容し難い
コレヘトの書(→p.43)
- 応報思想の否定+そこに内包される二元論的人間観の否定
- 原理主義は悪人と同じだ(意訳)
- 善悪・賢愚は相対的なものであり、それらを二元化することは神に逆らう行為だ(意訳)
自己絶対化の誘惑が帝国主義に繋がる(→p.63)
- 二元論的思考は「正しい側」の自己絶対化を誘発する
- その結果が、キリスト教の覇権主義、植民地主義、ひいてはアメリカの帝国主義につながっていく
- アメリカの有権者の大半がプロテスタントであることから
終末論敵思想に含まれる問題(→p.74)
- そもそも、終末論は現実が思い通りにならない者が、その世界を全否定し、新しい世界を夢想するためのものである
- そのような者達の信仰とは、自分達に都合のよい未来をもたらしてくれる都合のいい神への信仰に過ぎない
- 神はそのような現実も含めて世界を創造したのである
- したがって、終末論思想はこの世界を創造した神を否定する行いであり、創造主を否定する行いである
[MEMO]
- 手厳しい。しかし、終末思想こそキリスト教の本懐であるような気もするのだが。
イエスの人間観と神観(→p.78)
- イエスは二元的人間観を否定する
- 何故なら、神の他に良い者はおらず、人の心は若い頃から悪いからである
- そして、良い人間がいないのであれば、他者を悪人と呼べる者もいない(皆、平等に悪い・罪人)
- したがって、「良い人間」と「悪い人間」という二元的人間観は否定される
- 唯一良い者とされる神は、罪人である全ての人間をそのまま生かしている寛大さが「良い」
- 全ての人間は神の支配の元に生かされているということである
[NOTE]
- それなら信仰とか要らないのでは
- 結論ありきの理屈で草も生えない
神を信じる(→p.101)
- 昔の人は神がいることが前提だった
- したがって、神を信じるということは「神を信頼する」という意味だった
- 現代のように「正直なところ、神がいるかどうかわからないが、いるものだと思い込む」こととは異なる
[NOTE]
第1回 聖書の非神話化と再神話化
聖書は神話である
神話を「聖書」とする問題
第2回 「聖書」と「歴史」 ――解釈学的問題
宗教の意義
神義論
第3回 黙示思想とコヘレトの書
第4回 イエスと原始キリスト教 ――その連続・不連続
第5回 ユダヤ教・イエス・キリスト教 ――明日の福音のために
黙示思想
コレヘトの書
二元論的思考とキリスト教
イエス時代のユダヤ教における「神の国」
イエスの行動と思想
終末論的思想の問題点
キリスト神話
パウロ
「信仰」とは何か(p.100)
聖書から読み取れる「いのち」についての洞察
信仰の在り方について
キリスト教の現代的意義
キリスト教の自己批判の必要性