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<脱>宗教のすすめ(竹内靖雄)

書籍情報

書籍目次

NOTE:

日本人の宗教観(→p.14)

    日本人は明治時代以前に宗教をほぼ卒業していた
    卒業=日常生活を宗教的ルールが優先されることはなかった(キリスト教やイスラム教のように日常に礼拝が組み込まれることがない)
    太平洋戦争時は天皇を神とする擬似宗教が社会を支配した

[NOTE]

    単一の宗教が社会を支配しなかったという点ではそうかもしれないけど...
    仏教は人別帳の編纂なんかを任せられてたわけだし、ある程度社会と一体化はしていたように思える
    イスラム教みたいに宗教法で裁かれることが無かった点を考えれば、宗教が支配していなかったと考えてもいいのかもしれない

浄土真宗とキリスト教

    浄土真宗は念仏を唱えれば極楽に行けると説いた仏教の宗派
    神や仏に助けてもらおうとする宗教を他力救済型宗教と呼ぶ
    キリスト教も他力救済型宗教のひとつ
    他力救済型宗教は、社会が混乱している時(戦国時代や恐慌期とか)に流行する(誰でもいいから助けて欲しいという願望の受け皿になる)
    日本にキリスト教が伝来した時、浄土真宗の勢力が強い地域ではキリスト教は流行らなかったらしい(どちらも似たようなものだから先行者の方が有利だった)

[NOTE]

    他力救済型宗教はカルト・狂信化しやすい
    キリスト教が秀吉・家康に弾圧されたのは浄土真宗によく似た性質があることを危険視されたのではなかろうか

人が宗教にすがる理由

    基本は「貧・病・老・死」の苦痛から逃れるため
    人は「貧・病・老・死」の苦痛から逃れたいと願う
    宗教はそれらの苦しみを軽減させるフィクションを提供する
    ここに宗教と信者の利害の一致が生まれる

[NOTE]

    頷ける
    特に病気はどうにもならない時は神に祈るしかないんだろうなとは思う

日本人の死生観

    死後の世界を信じていない(とは言え、完全に無いと断言するわけでもない)
    輪廻転生も信じていない(とは言え、完全に無いと断言するわけでもない)
    人は必ず死ぬものであり、死ねばそれまでの存在である
    それ故、死後のことについて深刻に考えても仕方ないと考える
    死そのものには何の意味も無いし、生そのものにも大した意味はない(無常感)
    それゆえ、潔く死ぬこと(美しく死ぬこと)に美を見出すようになった(葉隠感)

[NOTE]

    自分も死ねばそれまで(死後の世界は存在しない)と考えるタイプだが、キリスト教やイスラム教の人々があれほど真剣に死後の世界を信じていることが全く理解できない

死に対する考え方(竹山道雄)

    今、私は生きているが、やがて私も死ぬだろう。死ぬことで私の全ては終わる。死んだ後に私はいかなる意味でも存在しない(死後の世界はなく、輪廻転生もない)

[NOTE]

    これは自明のことのように思われるが、実際にキリスト教徒の人に話をしてみると本当に嫌な顔をされるのである

人間は何故神を発明したのか

    森羅万象を見て、不思議な出来事の説明として神の働きを仮定した
    神を仮定することで、この世に起きる現象が説明可能になった
    何か起きれば「神の意思でそうなった」「神の恵みだ」
    良くない事が起きれば「神がお怒りになった」「神はそれを望まなかった」
    一々理由を考えるよりも「神」というキーワードで説明する方が楽だったので蒙昧な時代には相応しかった

[NOTE]

    何でも神のせいにして思考停止するのは実際楽
    21世紀になっても宗教がはびこる原因でもある

一神教の発明

    農耕民族は、生活上の素朴な実感として様々な自然の恵みに感謝を捧げるのでアニミズムや多神教になる(雨の神、土地の神、水の神、山の神etc...)
    遊牧民族はその生活様式上、強いリーダーを求める(的確な判断力、強いリーダーシップetc...)為、「神=強力なリーダー」が投影される
    強いリーダーは一人で十分だし、そのリーダーは超人的な能力を有する存在であってほしいと考えるので、万物の創造神的な超越的なイメージが付与される

[NOTE]

    基本的に原始宗教はその民族の生活様式に強く影響されるものということだな

唯一神と人間の関わり方

    創造者としての神
        光りあれのやつとか
    殺戮者としての神
        大洪水で人類一掃とかソドムとゴモラとか
    立法者としての神
        十戒とか諸々

[NOTE]

    つまり万能の超越者ということであるな

賢者ナータンの3つの指輪の話

    賢者ナータンはユダヤ人の大金持ち
    ある時、イスラムの王様から質問される。曰く「ユダヤ教、キリスト教、イスラム教のうち、どれが本物の宗教か?」
    ナータンはユダヤ人だしユダヤ教だからユダヤ教だと答えたい。しかし、イスラムの王様にそう答えるのはハイリスク。かと言って自分に嘘をついてイスラム教だとも言いたくない
    そこで、3つの指輪の話を持ち出して、王様を唸らせた
    曰く、3つの指輪があって内2つは贋作で本物はひとつだけ。しかし誰にも見分けることができない。ならば各々がそれを本物だと信じているのであれば、それは互いに尊重されるべきである的な話
    つまり、3つの指輪は同じ神を奉じる3つの宗教。それぞれの信者がそれぞれの宗教を信じているのであれば、いちいち争うことはせず互いに尊重しあうべきだという話

[NOTE]

    それでいいのか?

キリスト教の迫害の歴史

    教祖キリスト、ゴルゴダの丘で磔に
    ローマ皇帝ネロ、ローマの大火事の犯人をキリスト教徒と断定。これを弾圧。
    古代ローマ、皇帝自体を神格化する皇帝=神体制に移行。キリスト教を邪教認定。これを弾圧。
        ただし、その後信仰の自由が容認。更にその後ローマの国教としてキリスト教が採用される
    日本のキリシタン、豐臣秀吉・徳川幕府に徹底的な弾圧を受け、殉教者を多数輩出する

キリスト教の悪行

    ユダヤ人迫害、異端審問、魔女狩り
    細かい内容は後述

[NOTE]

    十字軍遠征はカウントされないのかしら
    他にもスペイン人の南米征服とか、宣教師による奴隷売買も入れるべきでは

キリスト教の悪行(1):ユダヤ人迫害

    東ローマ帝国では、ユダヤ人は一切の公職から排除され、キリスト教徒を農奴として使役することを許されなかったので農業を営むことが事実上不可能だった
    ローマ・カトリックは、イエス・キリスト殺しの大罪人の子孫であるユダヤ人はキリスト教の正しさを証明するために必要な存在であると判断、ユダヤ人=ユダヤ教のままに保存する方針を決定。
    賤民としてユダヤ人とユダヤ教を「保存」、「卑しむべき敵として保存し、差別し、隔離し、迫害する」ことが原則となった
    この扱いが後のナチス・ドイツにおけるホロコーストの遠因となる

[NOTE]

    迫害する為にユダヤ人を保護するとかは陰謀論臭いが本当だろうか
    そもそもそんな事する意味あるのかと思うし、ヘイトをそんな風に制御することはできない気がする
    とはいえ、キリスト教徒ではできない仕事に従事させる為という事なら多少の合理性はあるのかもしれない(日本で言う穢多非人的な扱い)

キリスト教の悪行(2):異端審問

    キリス教内の派閥争いの激化に伴う内輪揉め
    異端認定された者の破門、投獄、資産没収から始まり、あらゆる権利の剥奪、追放、土地の没収、果ては火炙りの刑による死刑の横行
    異端者の密告の奨励。その後、奨励から義務に格上げされ、ノルマ制に。ノルマを達成できない者は異端者の疑いを掛けられる
    異端審問は弁護士不在の一方的な裁判

キリスト教の悪行(3):魔女狩り

    16-17世紀に流行したある種の集団ヒステリー
    正規の法手続きとして、証拠なしの拘引、拷問による自白の強要、弁護士無しの裁判、死刑が行われた
    明白な証拠もなく殆ど言いがかりで魔女であると決め付け連行される
    南フランスやスイスでは16世紀以前の段階で数千人規模の犠牲者が発生
    ドイツでは告発合戦が吹き荒れ、老若男女関係なく誰もがいきなり魔女扱いされる恐れがあった
    拷問の苦痛から逃れる為に自分は魔女である「自白」したり、知り合いを魔女(仲間)だと告発する事例が横行
    16世紀末のドイツのトリールでは7000名が死刑となり村が2つ消滅した
    キリスト教と権力が結びついた結果、公務として堂々と魔女狩りが可能となった事が犠牲者を増やした最大の原因である
    政教分離によって権力と宗教が分解されたことで、民衆は宗教的迫害と殺人から逃れることができた

[NOTE]

    宗教と権力が結びつくと本当に厄介であるな
    原則として己の誤りを認めない信者と、暴力のお墨付きを与える権力の相乗効果は人類最悪の発明
    人類が政教分離に至れて本当に良かった
    ちなみに実際の魔女狩りは巷に言われているほど苛烈なものじゃなかったという話も聞くけど実際どうなんだろうか

参考資料

    魔女狩り - Wikipedia

キリスト教の本質

    自分達が正しいと完全に信じこんでいること
    自分達だけが絶対的に正しい、正しくない人間は許せない、抹殺すべきだという考えに容易に至る
    自分達だけが正しいと信じているので、どんなことでもできる
    とはいえ、これはキリスト教に限らない一神教が抱える普遍的な問題でもある

[NOTE]

    キリスト教徒に感じる気持ち悪さはこれである
    善悪の基準を神や聖書に委ねて思考停止しているから、少し扇動されるとどんな事でもやってしまう恐ろしさがある
    そして、当人達はそれを絶対に認めない頑迷さを持つ