この世に「宗教」は存在しない(白取春彦)
書籍情報
書籍目次
- はじめに
- 序章I 宗教の定義
- 序章II 宗教の複雑さ
- 第一部 「世界四大宗教」を読み解く
- 第一章 「食物タブー」を考える
- 第二章 「ユダヤ教」「キリスト教」「イスラム教」の争い
- 第三章 「神の言葉」と「ドグマ(教義)」
- 第四章 「仏教」「ゴータマ・シッダールタの教え」は違う!?
- 第二部 "比喩"と"暗喩"が「聖典」を理解するカギ
- 第五章 聖典の正しい読み方
- 第六章 仏教の暗喩を解く
- 第七章 キリスト教の暗喩を解く
- 終章 宗教の問題点
- あとがき
- 主要参考文献
序章I 宗教の定義
序章II 宗教の複雑さ
何故宗教の聖典はわかりにくいのか
- 古代に書かれた書物なので前提となる価値観・文脈が異なる -> 聖典が書かれた時代の知識が無いと理解することは困難
- 聖典は厳密な記録ではなく、口伝や伝聞の集合体なので、表現や単位が曖昧・大袈裟になりがち
- 各時代の政治的判断で内容が改訂される
- これらの理由からそもそもわかりやすい文書ではない
聖典には何が書かれているのか
- 聖典は倫理について述べる文書である
- 生き方・考え方・物事への態度の決め方
- (MEMO)生き方・考え方etcについて影響を与える内容の書物は全て聖典と捉えてもよさそう
宗教組織に属するメリットは何か
- 「仲間」として認められる -> 心理的連帯感
- 「仲間」による相互扶助
- 生死の意義についての観念的回答 -> 死の恐怖の軽減)
第一章 「食物タブー」を考える
第二章 「ユダヤ教」「キリスト教」「イスラム教」の争い
第三章 「神の言葉」と「ドグマ(教義)」
第四章 「仏教」「ゴータマ・シッダールタの教え」は違う!?
誤解された仏教
- ブッダは輪廻転生を否定したが、仏教が広まる過程で再取り込みされた
- 仏像が黄金に塗られているのは伝聞が誤って広まったため
- 日本の仏教寺院は中国の役所の建築様式
- 護摩法要はバラモン教のホーマーという儀式
- お布施が高額になるほど戒名が立派になるのもバラモン教的価値観
- ↑バラモン教の影響というより、商業サービス化した宗教は大抵同じ道を辿るというだけでは??
仏教の消極性
- 仏教の目的 → 苦しみの消滅、苦痛のない状態を悟りと定義し、修行や瞑想などによって悟りを目指す
- 社会生活をすると苦しみが生まれるので、一人または少数のグループで瞑想と質素な生活を送り、極力社会との接点を減らすことで、社会と付き合う上での苦しみから逃れようとした
- 食事や生活用品は施しを受けることで入手し、労働はしない
- 自身では労働・社会生活はしないが、町という経済・社会活動集団に依存することで生命を繋ぐスタイル
- 人生に対して消極的であることで苦しみを受ける機会自体を削減するのが仏教の考え方
- ↑原始仏教が廃れるわけである
- ↑あるいは現代のひきこもりは悟りを啓いた存在である可能性が?
第五章 聖典の正しい読み方
聖典の内容の多くは暗喩
- 古代人はボキャブラリが少なかったので重要な概念を暗喩という形でしか表現できなかった(←??)
- 聖典に記されている内容は事実ではなく、その文章が伝えたいテーマの暗喩であると考えるべき
- ex.出エジプト記でモーゼが海を割るシーンは、ユダヤ人の独立とかそういうテーマの暗喩みたいな感じ
- ↑古代人のボキャブラリが貧困だったというよりは、現代とは感覚が違うから単語と概念が一致していないとかそんな感じだろうか
第六章 仏教の暗喩を解く
祈れば神仏に通ずる的な誤解
- 法華経系の他力本願系の宗派のこと
- この考え方は神仏を「祈りを対価として何らかの結果を返す機械」のように見る考え方
- 日本の節操なしな宗教観の根底とも言える
- ↑神仏に願を掛ける振る舞いは人類共通である気がするが
- ↑要するに、そういう即物的な信仰ではなく、しっかり信仰対象に帰依するような信仰の方が価値が高いと言いたいのだろうか
何故暗喩を使うのか
- 聖典が書かれた当時には、現代のような概念語や学術用語が無かった為、抽象概念を適切に表現する手段が無かったので暗喩を使うしかなかった
- ↑当時の言語体系に関する知識が無いと判断することは出来ないが、いまいち肯定しがたい
- ↑記録や文書を残すような文明の言語体系がそんなに稚拙なものであるとは考えにくいのだが...
悟りとは
- 悟りとは特別な事態や神秘的な現象ではない
- 様々な思い(執着)、感情、利害勘定、価値評価、記憶、こだわり、習慣などを己から削ぎ落として、ただ今を生きるだけの在り方に至ること
- そのような境地に達すれば、必然的にあれこれ思い煩うことはなくなる --> 苦しみが無くなる
- ↑やはりこの程度のことを表現できない言語体系を想定することは難しい。単に格調高く見せる為に難解な表現を好んで使った(つまり虚飾)というだけの話ではないだろうか
- ↑紀元前500年には孫氏の兵法が書かれていたし、ローマやエジプトだって当時の先進文明である
第七章 キリスト教の暗喩を解く
イエス・キリストの言わんとしたこと
- 俗世のしきたりや価値観に囚われず、隣人に愛を以って接しろ(汝、隣人を愛せ)
- 隣人愛に溢れる場所こそが天国なのだから、天国を目指すものは隣人を愛せ(死後の世界については述べていない)
「天国は貧しい人のもの」の意味
- 金持ちは面倒事を金銭で解決できる
- 貧者は資産を持たないが故に何をするにも周囲の者の協力が必要になり、お互いの信頼と愛が無くては生きていけない
- 貧者が協力しあって生きているということは、彼らはお互いの信頼と愛で支えあっているということである
- 天国とは愛に満ちた場所のことである
- つまり、彼らは天国にいるということである
「この世の終わり(終末論)」について
- これもただの暗喩のひとつ
- 世界中の人が愛に目覚め(キリスト教化され)、俗世的な価値観が破棄され、これまでの社会常識が終わることを「この世の終わり」と表現した
- したがって、実際的な意味で世界や地球が破滅するわけではない
- ↑敬虔なキリスト教徒(特に福音派)はこれを認められないのでは? これを認めるとキリストの復活だの黙示録だの言ってるのが最高に滑稽になってしまう
復活と救いについて
- これもまた暗喩
- 死者の復活は生物学的な意味での蘇生を意味しない
- 俗世的な価値観・生き方を捨てることを「死」と表現、そして愛に生きる生き方に悔い改めることを「復活」と表現した
- (NOTE)生物学的に死んだ人間が時期が来れば蘇生するという解釈より余程まともな解釈であるように思う
キリスト教における救い
- 「現状のままでは人は罪に塗れている、その罪はいずれ神から裁かれ、その報酬は死である、この罪を取り除くことができるのは神だけである、しかし神の子であるイエス・キリストが人の罪をすべて背負ってくれた、そのことを信じれば霊魂は救われる(p.202)」
キリストの最期について
- 有名な「神よ、なぜ私を見捨てられた云々」は旧約聖書の「詩篇」第22章の冒頭である
- 「詩篇」第22章は神への嘆きで始まり、最終的に神への感謝でおわる構成である
- そして、この祈りの詩句の冒頭を口にしたからにはイエスは「詩篇」第22章を最後まで口にしたのである(←???)
- 何故なら、それが聖書の記載方法の決まりだからである(←???)
- つまり、イエス・キリストは神に感謝して死んだのである(←???)
- ↑理屈は全く理解できないが、要するに満足して死ねたのならよかったのでは??(小並感)
終章 宗教の問題点
イスラム教徒が聖戦に身を投じる理由
言語の分折化作用
- 「言語を使うことによって、本来ははっきり分けがたいものをとりあえず分けて考えてしまこと(p.215)」
- 例えば、「今日/明日」など本来時間は連続していくものであるが、「今日/明日」と分けることで別のものだと捉えることができる
- 人類は言語によって概念に名前を付けることで初めてその概念を認識できるようになる
- しかし、全ての事柄を言語で十分に説明できるわけではなく、言語での情報交換には限界がある
「象徴的行為」から「偶像崇拝」へ
- 目に見える象徴の形に囚われるあまり、その象徴自体に何かしらの意味がある尊いものだと錯覚してしまう
- そもそも宗教の儀式は全て象徴的行為であるが、そのことは忘れ去られ、その行為自体が尊いものだと認識されてしまう
- このような状況はもはや偶像崇拝と変わりがない
人間の思考のクセ
- 自分の体験や感じたことに何か特別な意味があると考えたがる
- ↑そのようなスピリチュアル脳な人はどの程度の割合なのだろうか
宗教の「救い」
- 宗教は現実社会における実利的・具体的な「救い」は与えない
- [MEMO]禁止事項はやたら決めるくせに肝心なところではこれである
- 宗教がもたらす言葉は超世間的であり、人の思惑を超えている。自分自身が自分の内に何かを見出すことで自己が変わることが重要
- [MEMO]
- 一章の頃と比べるとだいぶ雰囲気が変わってきたような
- テンションが上がってしまったのだろうか
- 結局世間から離れることが善きことという先入観から脱出できてないんだよなぁ
- 社会で上手くやっている人はそれで十分幸せなのだから、それに対しては素直に祝福を贈るべき
- 社会で上手くやっている人に対して、世間から離れることが真の救いだの何だの言って悦に浸るのは何よりも見苦しい
- 所詮は人間を上手にやれなかった人の慰めに過ぎないことをはっきりと自覚するべきだろう